イーハトーブ

イーハトーブとは宮沢賢治による造語で、賢治の心象世界中にある理想郷を指す言葉である。岩手県をモチーフとしたとされており(詳細は後述)、言葉として「『岩手』(歴史的仮名遣で「いはて」)をもじった」という見解が定説となっているが、賢治自身は語源について具体的な説明を残しておらず、異説もある




「 イ ー ハト ー ブ 」 とは ,宮沢 賢治 が 唱 えた 本当 の 魅力いっぱいの 生 命 と活力のあるれる田園理 想 郷 で す . 賢 治 は東和町 をよく 訪 ね ,
作品 の 中 にも い く つも登場させています.
「 イ ー ハ ト ー ブ ・
エコミュ ー ジアム 」 は ,東和 の マ チ を 中心とした広い地域,文化圏を
そ っ く り まるごと
「学校」「研究 所 」 「 実 践 空 間 」
と位置づけて,
地域の住民と地域を訪れる人々がともに
「学び」「考え・研究し」「実践する」創造の広場へと変革させていく運動
であり,住民参画によって展開される
「地域のあらゆる資源を最大限に引き出す」生涯学習や人づくりであり,
生きがいづくりであり,マチづくりの考え方です.
東和町には独自の自然,歴史,文化がありますが,
ずっとそこに住んでいる人がその魅力に気づくことはなかなか難しいことです.空・山・川総合研究所では「気づき」のきっかけづくりに力を入れました.
その結果,地域の持つ魅力を再発見する人が少しずつ増えてきました.
また,行政では「田園空間博物館整備事業」を進めています.
マチを6つの小学校区に分け,
それぞれの資源を
農村景観・
自然環境・
歴史文化・
散策路
という区分で点検し,
原風景を復元しようという事業です.
具体的には,水車小屋・並木道・
旧史跡の整備,伝統的建造物の復元,
棚田の散策道,
トンボやメダカの棲める清流
の整備などを検討しています.
このように,東和町では住民と行政がそれぞれの立場から,
エコミュージアムの
考え方にたったマチづくりを進めています.






賢治の作品中に繰り返し登場するが
実はその語形には複数の形があり、年月とともにおおむね以下のような変遷をたどっている。

イエハトブ → イーハトヴ → イーハトーヴ → イーハトーヴォ/イーハトーボ → イーハトーブ
この語の成り立ちについて文献[2]によると、次の3点が挙げられる。
  1. 一貫して見られる語尾 -ov(o) の形は、ロシアの地名によくある語尾をもとにしたと推察される。
  2. 語尾が「ブ」「ヴ」から後に「ボ」「ヴォ」に変わったことについては、賢治がエスペラントに親しんだ事実やエスペラントでは名詞は -o で終わる語尾をもつことからエスペラントの影響であると推察される。
  3. 世間には「イーハトーブ」や類似の言い方をすべて含めて「エスペラント(を意識した言葉)である」などと解釈されることが少なくないが、これは正しい解釈ではない。
なお発音については「岩手」が由来であるとされたことから歴史的仮名遣による「イートーブ」ではないかという説もかつて唱えられたが、その後賢治が自筆した「IHATOV FARMER'S SONG」(日本語題は「ポラーノの広場のうた」)と書かれた楽譜が発見されたため、発音は「イートーブ」で正しいという見解に落ち着いている[1]
その他、房総で記録された宮沢賢治と同世代人のオーラルヒストリー録によると、次の意味として理解する者があったことがわかる。
  • 「イ」は『人』べんなり。「ー」と「ハ」の字画と「トー」の字「十」をもって『平』を作る。「ブ」は「不」に二点をもって『衣』へんなり。即ち、縄(撚糸)で『衣』を発明した『人』『平』かなる縄文の世をいう。
賢治が同様に実在地名をベースとして造語し作中に登場させた地名としてはモリーオ(盛岡)、ハームキヤ(花巻)、センダード(仙台[3]、シオーモ(塩竈)、トキーオ(東京[4]などがある。

童話集『注文の多い料理店』広告ちらしによる説明 [編集]

賢治が生前に出版した唯一の童話集である『イーハトヴ童話 注文の多い料理店』の宣伝用広告ちらしの文章には、「イーハトヴ」について以下のような説明がなされている。この広告文自体は無署名だが、内容等から賢治自身によるものと推定されている。
「イーハトヴとは一つの地名である。強て、その地点を求むるならば、大小クラウスたちの耕していた、野原や、少女アリスが辿った鏡の国と同じ世界の中、テパーンタール砂漠の遥かな北東、イヴン王国の遠い東と考えられる。実にこれは、著者の心象中に、この様な状景をもって実在したドリームランドとしての日本岩手県である。」
なお文中に出てくる「大小クラウス」はアンデルセンの『小クラウスと大クラウス』、「少女アリス」はルイス・キャロルの『鏡の国のアリス』、「テパーンタール砂漠」はインドの詩人タゴールの詩篇「旅人の国」「渡し守」、「イヴン王国」はレフ・トルストイの『イワンのばか』からの引用である。

賢治以後の使用 [編集]

宮沢賢治の作り出した「イーハトーブ」という言葉(またはその変形の言葉)は、彼の作品とともに日本では広く知られるものとなった。例えば、この言葉は以下の事物の名称で使われている。
岩手県を舞台やモチーフとした芸術作品のタイトルに「イーハトーブ」が使用される例も見られる。その中で、岩手県出身の作家三好京三の小説『分校日記』を映画化した『イーハトーブの赤い屋根』(熊谷勲監督・1978年)は最も早い部類に属すると推測される。ほかにもさだまさし1993年に発表したアルバム『逢ひみての』には岩手を舞台にした『イーハトーヴ』が、谷山浩子1979年に発表したアルバム『夢半球』には『イーハトーヴの魔法の歌』がそれぞれ収録されている。
岩手県奥州市出身のミュージシャン・大瀧詠一の変名の一つに「イーハトーブ田五三九」がある。岩手県釜石市出身のミュージシャン・あんべ光俊は『イーハトーブの風』という曲を作曲した他、自らのウェブサイトを「イーハトーブ・ウィンズ」と名づけている。
1993年には、スーパーファミコン用ソフト『イーハトーヴォ物語』がヘクトから発売された。この作品は、イーハトーブを訪れた主人公が住人たちと交流しながら賢治の七冊の手帳を探し求めていくという内容のアドベンチャーゲームである。賢治作品に登場した人物や動物たちがイーハトーブの住人として登場し、原作から引用されたエピソードも数多く盛り込まれている。
1996年に、賢治の生涯をモチーフとした単発のテレビアニメ『イーハトーブ幻想〜KENjIの春』が放映されている。
KONAMIの音楽ゲーム『pop'n music』では「アルビレオ」という猫のウェイターが楽曲の担当キャラクター登場しており、彼の出身地がイーハトーブである。また、担当曲の固有ジャンル名もアイディア段階では「宮沢賢治」だった。キャラクターの名前も銀河鉄道の夜からとられている。
MacOS XのFont Bookにおいて日本語フォント選択時に「イーハトーヴォ」で始まる文例が表示されるが、これは『ポラーノの広場』の一節を引用している。

類似の架空地名 [編集]

「実在の地名を外国語風に言い換え、架空の地名として使う」という手法も広く使用されるようになった。たとえば井上直久の「イバラード」(大阪府茨木市)、ますむらひろしの「アタゴオル」(千葉県野田市の愛宕)などが挙げられる。


徳島県美波町伊座利地区(都市からの“漁村留学”の受け入れ)、
千葉県香取市佐原地区(小江戸として観光船の復活)、
山形県東根市(PFI活用のきめ細かい住民サービス)、
富山市(コンパクトシティ:クルマ社会の弱者が住みやすい市)、
長野県佐久市(長寿者が望む死に方として“ぴんころ地蔵”の新設で全国から集客)、
北海道の伊達市・美瑛町や
長野県軽井沢町・沖縄県(移住希望者の要望に応えて人口増)等である。
これらはブランド地域として注目されているが、非ブランド地域にとっても、
自分の地区(市町村)をブランド地域にする努力が求められる。

 従来の市町村の地域振興策は観光客増のために、観光PRを実施、地産品販売拡大のために東京に地産品を取り扱うアンテナショップを設けるなど
各個別毎の施策を講じ、個別ブランド化をめざしてきた。
各個別の施策のブランド化は実施者の範囲が限定的であるのに対して、
地域ブランドでは地域全体をブランド化することにより、
実施の範囲を限定的に捉えず、
施策の対象を非常に広範囲に捉えていくことに特徴がある。


(2)ミュージアムの今日的役割ーコレクションから地域ブランドへー
1) エコミュージアムの定義
地域ブランド関連施策が地域内外の人々や企業に対して浸透してくると、
地産品販売拡大、観光振興、産業振興、人材育成、移住者といった
定住人口増等のブランド便益を促し、
その結果として地域活性化が図られることになる。
筆者はエコミュージアムの思想と手法を適用することで
それらが達成できると期待している。
エコミュジーアムの可能性を信じ、それにかける地域だけが人口減少の波をくいとめ、
生き残れることになるであろう。
エコミュージアム(Ecomuseum)とは、フ
ランスで1960年代後半に誕生した概念で、仏語のエコミュゼの英語訳である。
日本語訳としては新井重三により「生活・環境博物館」という訳語になっている。
それは、まず、そこに住む住民自らが、
自発的に手持ちの地域資源の価値を発見(収集)し、
その価値を表現(展示)したり活用して現代にいかそうとするものである
(小松、1999、p.1)。
地域全体を博物館と捉えて行われる諸活動であり、そのための諸制度のことである。日本では1980年代後
半から1990年代初めにかけて本格的に導入され、山形県西村山郡朝日町で具体的な試みが始まり、現在、全国でさまざまな取り組みが展開している。
経済的な発展を優先させている事例、生涯学習の砦としている事例、自然・文化・産業遺産の保存を優先している事例等、エコミュージアムの形態は多種多様であるが、エコミュージアムの制度設計
思想は1.テリトリーの設定(住民が主役)、2.テリトリーが持っている遺産・資源(自然・文
化・産業)の発掘、3.遺産・資源を登録するコア(核)と現地で見せる(活用する)サテライトの整備、4.行政と住民の協力、の4条件を要求するものである。とはいえ、エコミュージアムの定義
についてはまだ定まったものがない。
1995年に発足した「日本エコミュージアム研究会」が2001年に
提示した“エコミュージアム憲章2001”の冒頭にある
「エコミュージアムは環境と人間とのかかわりを探る博物館システムである。
それは、ある一定の地域において、
住民の参加により、研究・保存・展示を行う常設の組織である、
地域社会の持続的な発展に寄与するもの」というのが代表的な定義で
あるが、これではエコミュージアムの本質的な内容を伝えにくい。吉兼(2000)の概念定義が内容を的確に記述しているといえる(注1)
。エコミュージアムのキーワードは、吉兼(2005)が指摘する
『自文化を自分化する』である(注2)

2)事例紹介
筆者が2006年度に現地を訪問して、エコミュージアム展開活動の事例を収集したものの中から3地
域の実態を紙幅の関係もあり、ごく簡単に紹介したい。



①湖北田園空間博物館(湖北エコミュージアム)並びに
滋賀県立博物館
滋賀県の湖北の中心都市は、工芸ガラスの黒壁によるまちづくりで有名であり、
それは長浜である。
田園空間博物館の音頭を取る滋賀県湖北地域振興局田園整備課が、自らの所管する事業範囲を越えて、
黒壁と表裏一体で長浜のまちづくりを実質的に調整している
NPO法人まちづくり役場や、管内の1市12町(現在は合併で2市8町)で
実質的に動いているさまざまな団体に呼びかけて、全国大会を行った。
一方、
同じ地域振興局の地域振興課は、同時期に湖北エコミュージアム構想を策定し、
地域学芸員講座や団体への補助事業を開始している。
湖北エコミュージアム推進協議会が立ち上がり、ボランティアの地域学芸員が
集まって活動を始めている。
県立琵琶湖博物館はエコミュージアムを標榜してはいないが、
1996年に開設、「“地域だれでも.どこでも博物館”である
淡海文化の地域の価値を地域の人とともに掘り起こし、
地域全体が博物館と呼べるようになる」ことをめざす。
そして、そこから地域の将来像を考え、実践的な街づくりの活動が
発展することが期待されている。
琵琶湖地域の人々が学芸員となり、それぞれの地域が博物館となるよう
支援するのである。
琵琶湖博物館には
「フィールド・レポーター制度」がある。
いわば「地域学芸員」を毎年募集し、
地域学芸員が県内の自然や暮らしについて身の周りを調査し、
定期的に博物館に報告してもらう。
また、従来のミュージアム・ボランティア制度よりもさらに踏み込んだ
「はしかけ制度」がある。
これは博物館で何か活動をしてみたいと考える人が登録をして、
自分たちでテーマを決め、グループをつくって企画・運営を行う。
2002年度には156名が登録した。


注01 
エコミュージアムは地域の中にいくつかの限られた美しい景観や自然、
大事な文化財や記念物があるというのではなく、
地域の中にあるすべての素材に価値があり、
それらが一体となってはじめて地域は地域となると考えるものである。
エコミュージアムは一定範域(テリトリー)内で地域の記憶の井戸を掘り、
掘り出された記憶(遺産)を地域全体の中で
存・展示・活用していく博物館づくりである。
それは地域遺産の遺産相続の仕掛けづくりとそのための運動であるとも考えられる。
エコミュージアムは従来の博物館のように
建物の中に資料を集めて展示するだけではなく、
テリトリー全体を展示室として、
地域の遺産・記憶を本来の場で保存活用しようとするものである。
それは地域の姿を映す鏡を構成するものである。
また、収集・保存しようとするものはあくまでも住民の記憶である。
エコミュージアムの主体は住民である。
その住民がアイデンティティを感じるテリトリーの中で大切にしたいという記憶を
住民さらに来訪者(観光客)にも理解できるように工夫する。
つまり地域を等身大で映す鏡を作り、
その鏡を通して将来の地域像を考えていこうとするものである。
それは住民にとっても観光客にとっても何気なく訪ねて否応なく理解する
生涯学習機関というべきものである。(吉兼、2000 pp84-85)


注02
 「身の回りの環境や文化とつきあうためには、
それらの文化を理解しておかなければならない。
これらの環境や文化というのは、その地域の人にとっては、
あまりにも当たり前すぎて、その価値がなかなか理解できない、
または気づきにくい。
しかし、自分たちの文化を認識し、知って気がついていなければ、
それを守り育てようという気持ちにはならない。
文化を自分化し、内面化する。壊されれば痛いと思うように身体化するのである。
自文化の疎遠化が多くの重要な地域の環境文化の喪失につながる。
自分たちの文化を本当に自分のものにする。(吉兼、2005)





②朝日町エコミュージアム
山形県の朝日町は朝日連峰の東側に位置する。
高齢化・過疎化・豪雪・主要産業である農業の発展の困難などの課題が
山積している財政難の町である。
「小さいからこそできる」として、
国内で最も早くエコミュージアムを取り入れた地域づくりを始めた。
1989年に町内にエコミュージアム研究会を設立、
1991年2月に『第三次朝日町総合開発基本構想』のグランドデザインとして
「エコミュージアム理念の導入」を採用し、
第一次、第二次基本構想(基本理念)の大きな展開を図った。
1995年には
役場の中に朝日町エコミュージアム研究機構が作られ、
2000年に朝日町エコミュージアム研究会は
NPO法人として認証を得て法人化し、活動は新たな段階を迎えることになった。
コアセンターとして
文化会館、中央公民館、図書館の機能を包含する“創遊館”を建設して
常勤職員を置いて街づくりに反映させてきた。
コアの機能と活動は
①教育・普及の機能、
②ライブラリー機能、
③情報システム・サービス機能、
④調査研究・収集保存機能、
⑤展示機能、
⑥利用者サービス機能である。
朝日町エコミュージアム協会」は2003年現在、
会員数87名、うち正会員36名、賛助会員19名、協力会員32名という陣容で、
サテライトミュージアムの整備、町内の宝探しやお宝展、
ガイドブック・カルタ・紹介ビデオなどの作成、住民劇、
都内大学にいる留学生の研修の受け入れなどの
住民主導の多彩な活動が続く。
朝日町の「サテライト」と呼ばれるエコミュージアムの展示物は17ヵ所あり、
この土地の自然遺産、文化遺産、産業などを紹介する。
朝日連峰や最上川といった自然遺産の他に、蜂蝋を原料とする
ロウソク製作を紹介する「ビーズファーム」や、
「世界のリンゴ園」、「空気神社」などがある。
説明は、必要に応じ地域住民が手がける。
朝日町では住民が参加し、
地域のリソースを再発見し愛着を持ってもらうことに成功してきた。
しかし、
現在では社会教育・生涯学習機能と重複する部分が少なくない(図表01)として、
財政難のなかで行政からの業務委託はなくなり、
コアセンターである創遊館には常勤職員を置くことができなくなっている。
とはいえ、地域の誇りを学ぶ住民ネットワークは形成され、
地域の住民が学芸員となり、
観光開発や経済的視点でない学習を重視した取り組みが続いている。



③イーハトーブ・エコミュージアム
イーハートーブという言葉は宮沢賢治の捜索した文学作品や映画や舞台を通して描かれた「田園理想郷・ドリームランドをしての岩手県」である。
イーハトーブ・エコミュージアムの中核は
街づくりに意欲をもった有志からなるNPO法人である
「東和町版シンクタンク・空山川総合研究所(1990年創設)」である。
東和町が花巻市に合併されたが、イーハトーブ・エコミュージアムは
東和町のものとの意識が強すぎるし、
昨今の財政難でその推進は風前の灯に等しくなってしまった。
「すべての生きものと響きあうイーハトーブ・エコミュージアムの創造」が
空海川研究所のテーマである。
観光施設や生涯学習施設等の既存の資源、
さらに個人や団体の文化・芸術活動の場をサテライトとして位置づけ、
そのネットワーキングを図っていた。
活動の指針として4つのテーマを設定していた。
それは
①イーハトーブを共感するための自然体験の場づくり
(住民による環境保全活動の推進:
こどもエコクラブの活動支援の進化と拡大、
多様な環境学習の展開、
イーハトーブ地球市民会議の展開、
エコツーリズム、
グリーン・ツーリズムの実践)、


②イーハトーブ文化圏の資源調査とその活用
(住民による文化の保全と創造活動の推進:
マルチメディアによるソフトの制作、
市民サークルなどとのネットワーキング、
既存の観光資源のネットワークのデザイン)、
③住民が自ら描く近未来
ビジョンのデザインへの参画
(集落レベルのコミュニティ・プランづくり:
自治会など地域の既存の団体や
NPOのビジョンづくりへの支援と相互学習・交流の促進)、
④イーハトーブの地球市民づくり
(「気づき」を原点とする農村型の生涯学習システムの構築:市民活動の担い手養成プログラムの実施、ワークショップ等によるNPO団体の養成)である。
(3)ミュージアムの役割の新たな視点軸の提示








以上の事例から、ミュージアムの新たな役割が浮き彫りにされてきた。
それは芸術品や文化財を収集して管理・保存・研究・展示・教育する
“かび臭い伝統的博物館”といったイメージからの脱却である。
つまり、展示物主体のコレクションのみでなく、
地域ブランドを創生する新たな役割を担うことになってきたということである。
ところで、日本全国にはミュージアムと名称するものが5000くらいはあるし、
年間100館以上がオープンしているといわれている。
それだけに社会におけるミュージアムの果たす役割は大きいものがあることになる。
しかしながら、筆者が共同研究で訪れた、
山形市から庄内を抜けていく112号線という道路の沿線の各村全部に
ミュージアムがあったように、
行政主導で“1村1館”といったことだけが一人歩きしている趣も見られる。

5000余のミュージアムの中で、
1980年代にできたものは総じて
バブルミュージアムともいわれるものも含まれているように、
地元出身の有名作家の生の原稿とか、
使用した机・老眼鏡などを骨董趣味的に展示するだけの記念館などもあるので、
地域おこしを目的に作られたミュージアムでも、
全くその地域らしさを発揮できなくなっている場合も多い。
その逆に、愛媛県双海町にある「夕日ミュージアム」は、
夕日はその町の占有物ではないのに、地域の固有物にしてしまっている。
イギリスのストーンヘンジとの関わりを持たせて、
日をその地域のモミュメントにして、地域ブランドと称して全国に発信している。
自然が生み出したランドスコープとそれらを構成する自然物の名前・物語、
そしてそこに人工的な記念物を加えて 地 域 ブ ラ ン ド と し て い る 。 
要 す る に 、
地域住民の叡智を結集して、
何をその地域の記念物的なモニュメントとして設定または創作して、
地域おこしのミュージアムにしていくのかが重要なことであるといえる。

その意味でもミュージアムの
役割の新たな問い直しが必要であるとい
いたい。

ミュージアムの役割としては
3つの視
点 軸 で 整 理 ・ 再 構 築 す る こ と が で き る 。

その
第一軸は建物の役割の見直し、
第二
軸は利用者の目的の確認と方向付け、

三軸は学習機能の拡充、である(図表02)。



第一軸の建物の役割の見直しは建物自体が芸術品といったことから、
さらに進んで建物自体が知的
創造の場となる視点軸である。

芸術作品といえば、

1936年7月に開館した釧路博物館は

地元ゆかりの
丹頂鶴のコンセプトを持ってきて建築学会賞を得たが、地

元にはなじまなかった。

1971年11月に開館



した埼玉県立博物館は建築学会賞を受賞した当時、
見学者は博物館関係者よりも建築関係者のほうが
多かった。

ところが、芸術品として賞賛される建物を設計・建造するのでなく、

建造物やオブジェに
至るまで全て石で構成されている

「博白館(岐阜県恵那郡蛭川村)」の事例がある。

蛭川村は日本三
大産地である石の村で、

そこの岩本石材商会の岩本哲臣氏が建てたものである。

年に一つずつ増やし
ていこうとして現在20余の建造物が出来上がっている。

ピラミッドも造っている。

岩本氏は

「ピラミ
ッドつくりは一日に二個半の大石といっても、

全体でものすごい数の石になり、それらがうまく座る
角度を見つけ出す喜びとか、

集まった仲間がワイワイ模索しながら作っていく楽しさ、

相手が石であ
るので必死にならざるをえない緊張感がたまりません。

今年できたビール館も社員6人で半年かけて

造ったのですが、そういう目的に向かって一緒に行動する喜びを
私は何度も味わいました」(小林、
1999)と語っている。

バーチャルミュージアムというような、

血の通った人間らしい知的創造のコミ
ュニケーション

のできる雰囲気を醸し出す場(建物)の設計が大切なことになる。

さらに、私が興味
を持ったものに“砂丘博物館”というアイデアがあった。


鳥取県には砂丘がある。


砂丘に人が集まっ
て、
「ここに砂丘があるので“ここが『鳥取砂丘博物館』である”
といった建物のないミュージアムも考えられるのではないか」、というものである。

第二軸の利用者の目的は
“何を見るのか”でなく“何を体験できるのか”といったことから、
さらに進んで利用者相互間、
地域住民・地域外の専門化も巻き込んでの
地域ブランド創生ネットワーク形成の視点軸である。
現在の状況はといえば、
“時間が有るから行って見よう”の意識が未だ見られ、
利用者の主体的なニーズの発揚にはなっていない段階である。
ミュージアム近辺に住む住民のニーズ
と遠くから訪れる人々のニーズの2種類に対応することが必要でありながら、
一部のミュージアムは
全国向けに発信する意気込みがすごいがゆえに、
地元住民は一度は出かけるにしてもリピーターにはならない
ということで地元住民との関係が構築できない場合も多い。
遠くから訪れる人にとっても意気込みに対して内容が漠然としたものであっては
アミューズメントテーマパーク的なものになってしまう。
入館者がどういう姿勢で展示品を見て、
また体験して、どういう印象をもって帰ったかといっ
入館者実態調査・心理研究をしている事例が少なすぎる。
一度入館したらその機会を接点として入館者との新しい関係の構築が
期待できるのに、
ミュージアムが地域ブランドになっていないがゆえに、
地域のアイデンテティを確認できないでいる。
第三軸の学習機能の拡張はミュージアムが
発信するメッセージで地域が活性化するといったことから、
さらに進んで“地域を主体とする知的ネットワーク”と
“地域問題解決のためのワークショップの場”が形成されて、
地域ブランドとしてのエコミュージアムに到達する視点軸である。
現在の状況はといえば、
ヨーロッパのように学校との役割を含めてミュージアムを
社会教育効果のあるものと地域住民が認めているかといったら、
この認識さえも浸透していない。
オランダの子供博物館ではインストラクターが親と子供を別々に入館させ、
後で合流させてお互いに感想を話し合わせているという。
見学の学習効果についてのきめ細かな配慮は日本のミュージアムには
まだまだ定着してないといわざるを得ない。









現在、
「内子フレッシュパークからり」は「特産物直売所」を中心に、
飲食施設として
「レストランからり」「あぐり亭」、
農産物加工施設として「パン工房」「燻製工房」「シャーベット工房」が隣接しており、
また交流・学習の場所として「農村体験館・農村公園」「ふれあい公園」も備えている。
「からり」は単なる農産物・農産加工品の直売所だけでなく、
農産物・農産加工品を通して、都市と農村、生産者と
消費者との交流・学習の場を提供している。
「からり」が成功した理由として、
明確な基本構想・計画の確立、
農業者の合意形成と参加意欲の醸成、
地域住民の経営参加と住民の経営意識の形成という3つ点が挙げられる。
しかし、より重要なことは「からり」において
女性が経営の意思決定に深くかかわっている点にある。
出荷会員の7割を女性が占め、女
性が経営的な意思決定にまでかかわることで、
女性らしいきめ細かな対応や意欲的な商品開発が進み、
それが販売額を伸ばしているのである。
効率的な農業経営を支えているのが、
直売所と農家を結ぶ「からりネット」である。
直売所の(POS)販売管理情報を携帯電話、
電話音声、ファックス等に自動配信することで、
農家は効率的な出荷計画や作付計画を独自に立てることが可能となった。
また、農産物の地域内循環運動(地産地消)にも積極的に取り組み、
あくまでも地元の消費者に地元の農産物を供給することを目指している。
らに、安全で安心な農産物を供給するために、
消費者への栽培履歴情報の開示、
トレーサビリティシステムの導入による残留農薬検査などを行っており、
安全性の確保を透明化することで消費者の多くの支持を集めている。
(6)終わりに
地方の農業が衰退しているのは、
少子高齢化に1つの原因があるとしても、
必ずしも国際化の進展や情報通信技術の高度化、
環境問題への配慮といった構造的変化に対応しきれていないからではない。
むしろ農業の衰退の本質的な原因は、
国の政策の失敗、誤謬にあったといえるのではないか。
これまで農業は経営ではなく補助金によって保護されるべき産業として
位置づけられ、政策が実施されてきた。
ところが、自由貿易推進という流れの中で、
もはや農業だけが保護策では乗り切れなくなり、農業も他の産業同様、
強い国際競争力が求められるようになった。